are-kore/今また訪れる記憶の中の遠い木霊
唐突ではあるけれども、当然そうであろうと誰しも思う処のことながら、ある聡明タイプに「今から50億から100億年後、太陽の活動末期膨張により地球は消滅します」と、自明のこととして淡々と言われたりすると、分かっているつもりでも心のどこかに暗然とするもの、覚えたりするものではありませんか? 消滅する。3万年前に旧人のネアンデルタール人は、絶滅したという。そうして種の寿命は、概ね20万年くらいだとか? 変化をするものだとすれば、今のこの我々タイプの人類もその運命には逆らえないということ、想像がつくことのようである。それまでこの人類が持つものかもわからないほどに危うさ、心許なさも伴うのだけれども、地球史的に見ても例えば20万年などほんの瞬間のようなもの。そのような時間内存在でしかない現人類が50億年、100億年後の地球消滅を無念に思ったりなどすること自体、空しいほどに及ばなさのあることで、いずれにしても我々の先、遠い未来にあるのは終焉。人類がいかなるものを生み残したところで、絶滅という運命が待ち受けているという事実。それを突きつけられるのは、やはり残酷と言うしかないものではないかな。
***
「3月11日の大地震の日は、花巻に行く予定だったのだけれども、急遽の変更で長崎に行くことになって地震のことも、その日の夜になるまで知らなかったんだね」、と言われた。どうも災難を避けることのできる運命らしい。長崎の出身で昭和20年8月の原爆の時も、離れたところにいて被爆はしなかった。でもその時に、兄弟4人を亡くして自分一人だけが生き残った、と言われた体験。それは重すぎるほどに重いこと。花巻に行く予定だったというのも宮沢賢治と縁深い地。先生はかつて「宮沢賢治語彙辞典」で宮沢賢治賞」を得ていたり宮沢賢治記念館、イーハトーブ館の館長であったりと、それは当然行く必要多い筈の地であろうし。
それから、徴兵検査の時にごく小さなサイズの聖書を、褌の内に閉じ入れておいたのを見つかり、殴られたことで鼓膜が損傷し今でも右の耳が良く聞こえないということ。小柄な彼が、その時に受けた衝撃を想像する。身や心に刻みこまれた拭えない記憶は、生きている限りどこまでもついてくるものでしょうね。亡くなった兄弟たちの分も生きる、そのような思いもその内に強く。1924年生まれの現在86歳。今年限りということだけれども、何度かご自身を「不名誉教授」などと言われる。早稲田大学名誉教授、詩人の原子朗先生。宮沢賢治をテーマに12月まで、早大エクステンションで教えていただける。この27日が第一回目だったけれども、86歳の先達に教えていただけるというのは、とても貴重なことに思える。味のある言葉の表現、表情、動き、どれにも関心覚える思いが動いて、良い機会を得たものと思っているところですね。
ところで、大震災、大津波、そして天才宮沢賢治ということでは、彼の生まれた1896年(明治29年)は明治三陸大地震、大津波が起きた年。死者不明者22000人。そしてまた、その37歳で亡くなった1933年(昭和8年)にも、昭和三陸大地震、大津波が起きて死者行方不明者3000人という大災害。不思議な巡り合わせですね。同じ地域を巻き込んで繰り返された、今回の、未曽有の大震災。過去の犠牲が教えていたものが、何であったのか、改めて考えさせられもして。
にほんブログ村
message/言わずとも解るはずの或ること
17 April
本日も快晴で、温か。満開だった桜も強い風で散って、近くの運動公園内など地面に雪が降り落ちたかのごとく見せている場所が、あちらこちら。これも4月も半ばを過ぎている今、変わらぬいつもの年の眺め。
この辺りには梨を生産する農家も多く、丁度今は梨園の梨の花も盛り。今年もまた、通りがかり画像に収めたりなど。
上は、昨年の画像。下は、本年。と言っても変わりないものであるけれども、上の昨年の画像、保存をしていたものの、忘れていてちょっと前までは桜か何かのつもりでいたのですね。
Mudai [平穏な午後に突如襲来するなとpunish]
にほんブログ村
play/ある想いへと飛んでいた心の痕跡端に置いて
昨年の真夏の頃、熱した車の通る車道の端で飛べずに羽をバタつかせていたセキセイの幼いMark。眼を疑うような光景だったけれども、どうしてそのような場所にいたものか。保護して以来、7カ月ほどになる。人間と同じに、あのような状況に置かれたパニックの記憶というのは、残るのではないかと思えるほど、なにか場にうちとけてこないというような、不安をひきづりつづけている風なところがあったのだけれども、この何日か、少し変化が見える。カゴの至近から離れなかったのが、10歳になる雌のオカメインコLuckieのあとを追ったりするようになった。ただLuckieは、避ける。逃げる。
にほんブログ村
scene/そこに登場したら最早退けない
冷たい雨、降りしきる、午前。2月最後の日、今日。動いているのか、動かされているのか、濡れた車道を這いずるようにクルマ、行き、やってくるのを広い窓の外に、見ている。時間が前に進むから、動く。進まなければ? それは押し進められて動くこともない。みいんな、時間の仕業。
止まってくれたら、「あの不幸な出来事もなかった」、ということだと、思うことはできる。それはそうだけれども、時間のない世界がどのようであるものか、それも想像がつかない。
にほんブログ村
fate/限界を認めるのはそれは苦いものにして
「誰の眼にも触れることのできるplaceにあるものながら、誰の眼にも本当には見えていないもの、というような何かしらについて語れるのは、それはそれは限られたinvisibleなあちらにおられるナニモノカのみ」。
というようなことが、ユラリユラリと漂い流れて行った午後の陽射しの中。
人間は慢心できるほどに利口でもないので、究極超えられない壁は常にありつづけるはずのものでありますからね。一プラス一の答が解らない程度のことで、うなだれることもないでしょう。 ね?
にほんブログ村
penetrate/そこに身を置けば傍観ともいかない
このような話を何処かでしてくれた頭文字Xという者がいて、もう既にあちらの形無き世界へと旅立たれたのだけれども、曰く、「適正な見張りがおらないと、もう自由勝手に檻の中──それは金属を含めた閉じ込め場のようなもののことだけではない、一国だって檻のごときものになることありで、如何様にも見ることできるものだけれども、そこで動き回りだして、人間時間の何十年もが過ぎれば、それは偏りすぎた色に土地の模様が染められてしまったりもするわけなのさ。それがまたひょんなことでひっくり返って色変わり。、あああうううううっ、っと何が外れてしまうものか。まあ、積木細工並みのものように崩れるものあって、例えばそこで幅をきかせていた筆頭格。代償を支払うことになる時が来るものでね。それはじつに呆気ないもの。まあ、人形芝居ほどのところと見れば宜しい処で。見事に繰り返されるこの世の、常なるお見通しのお話し。今まさに、あそこで起きていることが、それ。たとえ中身が複雑そうであれね、見えてくるのは、大差のない処で」
そのような言葉を思い起こしつつの今夜(14 Feb)は、みぞれ混じりの雨から、雪に変わっている。こういう冬の気候の中にいると、メール届いたパプアニューギニア辺りに住む者、羨ましくもなる。雪国生まれながら、寒すぎるのは苦手でありますねえ。
にほんブログ村
characteristic/そのland傾向を問われても答え難しと樹
11 February
今日は、建国記念の日。祝日。そういえば、毎祝日だっかかな? 通りがかりに見ると日本の国旗を住まいの前に掲げている、おそらくはそのマンションの持主でもあるのか、一階の住人がいるのだけれども、市会だか、県会、どちらかの議員をやっている人の処。なかなか良いものですね、そうした心がけ。白と赤の日本の国旗の色、私は、好きです。青空を背景に見える時など、特に映えて。
そんな青空とは無縁の本日は、みぞれ混じりの雨。どんよりとしておりますねえ。なにも言うことのないような、外模様。カーテン越し、ガラス戸に迫っているヤツデ。もう5、6日前ですか。珍しくそこにメジロが2羽やってきていたので、室内からカメラのシャッター。
通路譚/始まり終わるstoryなれども
ちょっと触れてみようかな、と思ったのは栃木在住の詩人本郷武夫君のこと。彼に最初に手紙を書いたのがいつ頃のことだったのか、あまり記憶がはっきりとしないのだけれども、参加者の住所などを含めた簡単なプロフィールの入るある出版社から出た詩のアンソロジーに、同じように参加をしていた彼のその住所、生年月日を見た時から気になっていたということがあったのですね。今からだと25、6年前のことになるでしょう。
私が、生まれる一か月前に亡くなった父の正確な出身地を知ったのは遥か後になってからのことで、一度として訪れたことのないその土地への思いも、結構強かったんですね。その土地、栃木の藤岡町。-本郷君の住所はそこであったし、誕生日も同じ年の9月1日と、10日の私とは9日ちがい。そんなところで、関心を覚える要素の重なるようなところがあったわけなのです。
そうしたことがあって、彼は自分の出す詩集や、主宰をしている同人詩誌が出る度毎に送ってくれるようになって、大分長い年月が経っていることになるのですね。1980年代中頃からですから。彼は若い時に県の現代詩人会の新人賞なども受けているんですが、当時の詩から受けるもの、ごく最近のものまで、繋がっている処ありまして、非常に興味深く思っているところです。という思いには、その部分にひかれている、という感性への共感のようなものがあるということなんですね。
危うげに何処かへと抜けていく、というようなイメージの流れ。繋がりの分断を仕掛けて、そこから発し漂うもののに、彼が見せようとしている何かしらがあるような。もっと、別な表現もできるところではありますが、これからも、関心をもって、作品には触れつづけていきたいと思っているわけなのです。
今年も年賀状も交わしました。実際に顔を合わせたことは、一度もないのですけれどね。言葉を通して表現されたもの、そこに見えてくる彼の世界、その模様だけで充分に思える、そのようなところですか。彼の住む地、同じ年齢。そうした重なる部分のあることも、やはり思いますね。いずれにしても、長い交流にもなってきておりますから。
frog/アタマに藍の冠載せて語る一期一会ばなし
Wasedaの講座「Death Education」の大槻先生のPCメルアドが、「oyabun」で始まるのを知った時には、「親分」とは面白いと、先生が外から見られていた一面をそこに見たような印象でしたねえ。頼りがいのある親父的雰囲気、70才までまわしをつけて相撲部の土俵にいたような体の太さも相俟って、漂わせるところあったからではないか、その人間性と共に。などということを思わせ、良く分かるような印象を抱いたもの、というようなことなんですが、携帯のアドレスは注意せずにいたところが、ちょっと前それを見て「chanko」で始まっていることに気づいて、たまたま外でコーヒーを飲んでいる時だったのだけれども、笑い出してしまいました。アドレスにまで使うか、というおかしさだったんですねえ。「チャンコ」。
その講座も終えて、今年度が10号になる冊子を出すことになっているんですが、それに出す自身の原稿のこと、年末、新年が始まって以降も考えていました。間口が広すぎて、何処あたりに向かっていけば良いのか分からないような感じのままに、締切のこの16日の先生宅必着ということに間に合わせないといけないとは考えつつ。日の過ぎる間にその方向のイメージがいくつか浮かんだりもしたものですが、一方でどういう形になるものか第三者的な興味を覚えたりもしたものですね。結局のところは、漠然と思っていたこととは別の方面を渡り、ともかく自分の原稿として形になっていました。悪くないかな、自身の意図は充たしてくれているかな、という印象は抱けるほどに。
今日、先生から原稿が届いたとの、メイルがありました。
明日は、世田谷のご自宅で先生招きの「チャンコ会」。
drawing/大気圏外モノクロmove
一昨日のことになりますか。3日の夜。9時過ぎに、近くのポストに葉書を出すべく玄関を出たところが、その先に見えるはずの自転車が見当たらない。その位置、何もなく空いた状態。消えているのである。考えても、他の処に置いた記憶はない。ということは、明白。盗難。持ち去られた、ということ。なのであるけれども、ここ、およそ持ち去られるとは考えられない場所、としかこちらには思えないのですね。道路から、16段の階段を上がる。玄関前周辺は明かりが、照らしている。道路の人の通りは少ないけれども、見上げる位置のこちらは、人の姿があるとすれば目立つ感じに映るはずの処。よって、ここまで上がってきて自転車を持ち去るというようなことなど、先ずは考えられないというのが、こちらの常識的な感覚。鍵をつけたままであったということはありましたが、実に信じがたい出来事でしたね。シャクでもありましたので、すぐ近くの交番に足を向けました。役に立つことはなかろうと思いつつ。
そして前日の午前、新しい自転車にはワイヤーロックもと、買い求めに近くの東武線駅そばの店に出向いたところが、すぐそこのコンビニ店FamilyMartの前に見えたのがこちらの盗まれた自転車。考えますねえ。不可解、得体の知れない者もまた、何処の近隣にも潜んでいるという模様。
*
昨日知ったことのひとつに、歌舞伎役者の人間国宝中村富十郎さんが3日の夜81才で亡くなられたということがありました。昨年の3月19日、早稲田の小野記念講堂で催しがありまして、講師として出席されていた。その時のお元気な様子など甦ります。その時最後に、司会をされていた演劇博物館の顧問をされている鳥越文蔵先生が、富十郎さんのそれぞれ70才、74才の時の男の子、女の子、二人のお子さんをステージに呼ばれたんですね。そして先生が長男の大君にマイクを渡して「なにかおっしゃりたいことがあったら、どうぞ言ってみてください」とやさしく言われた時に、10才の大君がすぐには思いつかない様子で考える間があってから、「みなさん、父のことを宜しくおねがいします」と言ったんです。会場に笑いが広がりました。80才の父親富十郎さんは照れるのとうれしいのと、みんな一緒になったように椅子の上で体を揺らせ、笑っていましたね。思い出します。
persimmon/お好きな方どうぞ
去る12 December 土曜日の朝のこと。通りがかり、柿の木のある家の前に見たざるの上の枝つきの柿。添えられた紙の言葉。「お好きな方どうぞ!!」。二本。その住人のハートのtendernessこめられた一本をいただいて、枝から離した柿、帰ってテーブルの上に置く。むろん、それ、sweetな甘柿でありましたね。
サイクル。kuru-kuru-kuru-kuru。外れを出さずに、11、12と来れば、次は1の振り出し。と数はサイクル守りはするけれども、同じとは言わせない? 同じ12、そうして次の1でも中身は違う。と謹厳実直絵に描いたような人ながら、つまらないことで恨みを買い、ころされてしまったあるひとも言ったものだけれども、別にだれが言おうと、左様と頷けるところ、それはありますわさ。今日は、19日。12月ということは、次、13ではなくて、数は1。そう早く来るな、とは言わない。
あちらの情熱去る季節の此方
昨日4日は舞台、シェークスピアの「アントニーとクレオパトラ」。自分が選んだわけではなく、友人。平幹二郎、松井誠、和泉元彌等々。その内容には自身は移入できること少なく、模様を眺めていたようなものだけれども、彼らの懸命さには感じる処多く、見てよかったな、と。
「いやな女じゃないこと? 見てくれは、食料品屋の素朴な育ちそのものなのに、あの話し方ったら、お聞きなさいな。彼女は、だから、とても話し方に気をつけて、お上品になるようにしてるのよ。着るものにもうんと気をつけてね。ほんとに、鼻持ちならない女」
その彼女とは、英国の首相だったマーガレット・サッチャー。
ポール・セロー(1941-)の作品 THE PILLARS OF HERACULIES (1995)の中で、コルシカ島のアジャクシオに住んでいたイギリス人の女性作家ドロシー・キャリントン(1910-2002)が言っている言葉。時には、そんな見方にも出会う。
9 December
前々々回、記事で触れた講座「Death Education」のアンケートのこと。「余命半年と言われたら、なにをしたいか、五つを挙げるとするならば」という内容のものでしたが、24名の回答の中の、興味深い一人の場合のもの。ここに紹介させていただくことにします。無記名、任意提出、書く形でA4用紙一枚が配布されたわけですが、この受講者のもの、そして私のみが別紙にプリントをしたということで、これはPCからの彼が提出した形のままのものですね。ちなみに、私自身は名前を入れ、かつA4、4ページというような長さの、他とは全く異なる形での提出になったということなんですが・・・・・・。
望むらくはtan-tanと
昨夜、PCを使おうとしたところが、何故か使用不能状態に。まだ、使い始めて一年。保存の画像等使えず、たまたま下書きに入れて置いた、上の画像のみ可、という状況。それ以前に使っていたインターネットのみ使えるこのPCで、今回は、更新。厄介なことです。
なので、このPCに保存されていた画像の中から、下のものなど取り出してみて・・・・・。
講座「Death education」の大槻宏樹名誉教授は、任意のアンケートの提出を求めているところ。「あなたがもし余命半年と云われたら、なにをしたいですか? やりたいですか? 5つあげて下さい」なるもの。ありそうな問いかけなのですねえ。What do you think?
gaze (凝視)
昔読んだことがあるような気でいたのだけれども、じつは思い違いであったことを知ったのが漱石の「吾輩は猫である」。短編のように思っていたのが、実際には長い。落語に触れるような面白さで、電車の中で吹き出したりなどする。
*
何故にそのようなことになるのか。分からない。理解不能。そういうことがあれこれとあるので、こういう物言いは常套のものとなってしまっているようであるけれども、そういうことであるので、そのように言うしかない。また次のことなどはなにかじれったくなるほどに、分からない。理解不能。敵わない、という不可思議さ。謎。考えても分かりそうにないから、考えない。自身がfoolというだけのことで、見つけられる人には、案外容易に答は見つけられるものであるのかもしれない。その人は、私からすれば見上げたmagicianのようなもの。大したもの。そう思うしかないですねえ。
というその、どう逆立ちしても分からないことというのは、卑近のことながら、私は月一回医者に行き、採血などをする他、5週分の薬をもらって帰る。朝一錠飲む薬が、35錠。昼と夕の食事の前に一錠飲む別の種類の薬が一日2錠だから70錠。私は、日々必要とされている通りに食前に1錠飲むことにしている。朝飲む薬は、当然35日目には、ゼロになる。飲み忘れることは、先ずはないと思う。ところが昼と夕で2錠になる方のが、ある時気づいたことに、輪ゴムのかけられた薬局からもらった時の形のままに、残っているのである。ありえないこと。もらったときには、そこで中身を確認する。簡単に見てみる程度であるけれども、薬局で数えられているものだから、数の合わないことは先ずは考えられない。5週分と決まっている。
ということは、どういうこと? 5週過ぎれば、ゼロになるはずの昼夕分のものが、ほぼ同じ分量残されて倍になっている。何故にそのようなことが起きるのか。薬局で訊いても解るとも思えない。謎のまま。解らない。解らないままに、月の数が重なる。
*
サイドバーに置いた奉納相撲の画像の内の一点が、「プライバシーの侵害」という申し立てをその当事者からso-net側に寄せられたということ。自身には意外に思えたことでありましたね。早速に削除をしたけれども、そういうこともあるものであること、知る機会になったという次第です。
words
何故にそのような表現になるのか、ということは思いたくなることもあるのではないのかな。いまここにいても、人間以外の身近な生きものの命も、変わらずに大切に感じるということは、自然に、そして当然にあること。小さな命に対しても、感じる。それは、どれほどにと問われても、それはその量的な大きさは言い難いようなものであるんでしょう。でも、どのような言い方も可能、ということはその者の心情によって、考えられること。語ることができるものでもあるわけですよね、それは。
そうした命に対する思い。それを表現するに、「地球よりも重いもの」、と例えば人間の命に対して言われたとすると、その大切さも知るがゆえに分かりはするものの、一方ではその想像を超えた比較対象の巨大さに圧倒されて、眩暈を感じるのみ、という状況に陥りそうなほどに、そのイメージには途方もなさが伴うようにも思える一面があるのではないか。1948年の死刑制度の憲法解釈に対する最高裁の大法廷での判決。その判決文で「生命は尊貴である。一人の生命は、全地球より重い」との表現が使われたこと。1970年代のこの国の某首相も、それに重なる表現を使ったことがあるけれども、その表現するところ、何処辺りで現実に照らして的確なイメージと繋がるものであるのか、思い見てみたくなる人の命への考えであるのではないかな。美しい言葉。理想を語る言葉。語りたくなるほどに、当のものが損なわれ続けた歴史があるが故に、その理想が貫かれなければならない、その究極の表現が伴わなければならない。我々の心の内の何処かには、それを求め願うものがありつづけるから。そうしたことも、思われるんですけれどもね。
無残なほどに軽く無価値に扱われることのある現実の命との乖離。その反省の大きさは、地球の重さほどにある? それはあっても良さそうなほどに、人間は人間を過酷に扱いつづけてきてもいる、という過去が、そして現在もそれは何処かで、あるはずのものでしてね。
medama legend
関心がある、という程のことではないけれども、何かの時にそちらに行き着いてしまう、というようなことがあるんですねえ。なにか、究極に近いようなあるところ、認識のようなものに。行き着いてしまう。
人間は考え、感じる何とかだから、それは流動しつつあちらに行き、此方に行き、ということになるわけですけれどもね。
或るひとは、こんな考えを言います。不可分存在(インタービーイング)のこと。
「もしあなたが詩人ならば、いま眼の前にあるこの一枚の紙の中に、漂う雲をはっきり見ることができるでしょう。何故なら、雲がなければ雨は降らず、雨が降らなければ木は育たず、木が育たなければ紙はできないからです・・・・・・雲がこの紙の中に存在していなければ、この紙もまたここに存在していない・・・・・雲とこの紙は不可分に存在していると言えます・・・・・この紙は、この紙以外のあらゆる存在によってできている・・・・・心や樵や太陽の輝きなど、この紙以外のあらゆる要素を元のところへ返してやれば、この一枚の紙は欠片もなくなってしまう。一枚の紙は実は、宇宙のすべての命を含んでいるのです」 (『ティク・ナット・ハンの般若心経』)
自己は、自己でないものから、できている。
そうした真実とも思えるようなあること、ふいと覗け視えること、視えてしまうことがあるんですね。時には、路上などにいて。
connect
13 October
「碧海」。音読みにして、お坊さんに似た名前と考えるか。でも、そういうお坊さんの名前、いそうでいないように思えるんですけれどねえ。でもこれ、音読みではない。とすると、なんと読むか。じつはこれ、先月29日に甥の処で生まれた2人目、3人目になる女の子、男の子の双子の男の子の方の名。与えられたように読める人は、なかなかいないのではないかなというのが、私のみるところで。熟語から、その形容をとらえる、というスタイルからのname。もちろん、その名にこめた両親の気持も、思いつつ。