are-kore/ eventually見えてきた一塊の出処解らず仕舞い異なる音ひびく日は彼方向く
Actually I don't know how to say showing of theseと いうところなんだけれども、2014年8月を最後に2年の間更新をしていないこともあり、こんな形で一度・・・・・・・・と 。但し、公開のままにして置くかどうかはその時の気分次第ではないかな、と思いつつ。
アタマの方がひたすら退化しているので、細かなところで色々と不都合なことが出てくる。宮沢賢治語彙辞典を初め賢治のことに関わられた原子朗先生は、早稲田の教室で賢治のことを色々と話されたものだけれども、彼は畑で作業をしている時でも常に首には小さなノートを下げていて、浮かんだことがあるときにはそれに書き込んでいたというようなことも、そのひとつ。それと自身のことは全然別なんだけれども、何故だかそうしたことが浮かぶというのは、忘れないための工夫としてやるべきことがあるのではないかと、考えるからなのだろう。メモにしても、どこにそれを書いたのかほんの一日の間に分からなくなってしまうような状態を放置しているのも、愚かすぎる。 というようなことがあるもので。
おかしな気配というのは、自他諸々の処で見受けられるもので、先の都知事選に立候補の鳥越俊太郎氏。最初の会見時、都知事としてやりたいこととしてボードに「がん検診100%」の言葉を、およそ考えられないようなヨレヨレの文字で書かれた。その内容も特異だったけれども文字自体あまりに尋常とは思われなかったので、印象に残っているのだけれども、普段の彼の筆跡は、まさかあのようなものではないんだろう、無論。それはともかく自身について思ってみて、当然ながら染みついた癖によってなる文字になっているわけで、それも自分のnoteなどではどんどん自分流に崩し、他の人間には解読不能の日英混交のものとなったりしていて、人の理解から遠ざかるものとなっていたりで。
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are-kore/この世で「永遠」とは何処辺りまでを指すの? 虹渡る日5歳児遠望する眼で問う
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are-kore/なぜそれを選ぶのかと画面抜け出て迫る真昼時のran-ran eyes
ほんの少し前のことなんだけれども、スウェーデンのIngmar Bergman監督(1918-2007)の"Shame(恥)"(1968)という作品を見て、その中で使われていたBachの音楽に興味をそそられ、感じさせられるもののあったことがあって、実は後でそれが別の映画の思い違いであったことが解ったりもしたのだけれども、ともかくBachの曲でのそうしたことがあって、その後で今度はドイツのReiner Werner Fassbinder監督(1945-1982)作品の中で流れたVivaldiの曲に、またなにか感慨が伴うようなことがこちらの思いにあって、個人的な感覚からすると珍しいことがつづいて重なった、という印象が強かった。などということで、記事にしてそれに触れてみたくなったものの、、、、、。
Bachの曲というのは、E major のViolin concertoの第二楽章部分、Adagioなのだけれども、使われていたのは実は別の映画の中ではないかということに疑いを持つまでには時間がかかって、私はどこかにそのシーンがあるはずだと"Shame"の中、あちらこちらを探し回ることになったのである。このベルイマンの白黒の映画は戦時中が舞台で、オーケストラでヴァイオリンを弾いていた夫婦、ベルイマン映画お馴染みの女優Liv UllmannとMax von Sydowが本土を離れ島で避難生活をしているのだけれども、そこもまた戦乱に巻き込まれる場となって、彼らの命も極限状況に晒されるに至る。
Bachと言えば、映画の冒頭で朝目覚めた後の夫が、夢の中で互いにオーケストラで隣り合わせブランデンブルグ協奏曲のスローな部分を弾いていたこと。泣きながら弾いていて、そして泣いて目覚めたと話すところでその名は出るのだけれども、ともかく、私の記憶にあったのは、そうした不安におびえる状況の中で束の間、壊れがちだというラジオからそのBachのAdagioが流れ、ベッドの上でひとり頬づえをつくようにして聴き入る彼女の姿があるシーン。何処かで確かに見ている。必ずあるはず、と思えた。シーンとしても、その映画の中では相応しいものと感じられて。その場面で使われたAdagioが感じさせた、心の深淵に浸みていくような、玄妙、緩やかな音の魔術的な流れ。伝わりくるもの。
いわゆる、西洋音楽。クラシック。多くの曲が映画の様々な場面で使われてきて、印象に残るその映画の中での曲も多いけれども、効果的に使われることでその音楽からひきだされるもの、膨らみを帯びるものの多いこと。それによって改めてその曲の持つ力に気づいたりする、というようなことがあったりなど。その時のadagioに感じたのも、そのようなこと。自身も楽譜を持っているし、弾いていることもある馴染んだ楽章なのだけれども、改めて思わされた、新たな部分。演奏していたヴァイオリニストのイメージなども、浮かぶ。おそらくは、Yeudi Menuhin(1916-1999)。ヴァイオリニストNigel Kennedyの言う"Bach speaks through Menuhin's violin"。それが分かるほどに。
"Shame"の中で、そのシーンのありそうな箇所を見つけようとしたのだが、ありそうにない。ということは? と初めて思い違い、おそらくは別の作品の中。ということに思い至って、それはどの映画か、と考えてみて行きあたりばったたりの思いつきで、同じベルイマンの"Persona(ペルソナ)"(1966)を見てみることになった。探るように映画の中途に入り込んでみると、偶然にも、まさにadagioの流れるシーン。病院のベッドの上にいるのは、同じLiv Ulymann演ずる、心に問題をきたして言葉を発することのなくなっている女優。Adagioの流れるなか、大写しになった彼女の放心したような物悲しげな二つの瞳が、静止したまま、画面の外の見ている此方側に真っ直ぐに向けられている。私の記憶にあったシーンのイメージとは、全くちがう。どういうことだったのか。
記憶の中のシーンのイメージとは、全然違った。ということ以前に、そもそも私には"Persona"を見た記憶がないと言って良いほど曖昧で、それはもう記憶障害を起こすような脳になっているらしいことを認めるしかないのだが、心に沁みるように流れていたはずのadagioが、この"Persona"のシーンでは、Liv Ullmann演ずる心を病んだ女優の心に共鳴する余地のないものとして流れているとしか思われない。この女の孤独が際立ち、音楽はただ脇を通り抜けているだけのもののように、感じられてしまう。"Shame"の中のシーンと思っていた時には、束の間の心の安らぎ、慰撫に呼応するように流れていたと思えていたものが。そして、感情というものを失っているかのように、見開かれている彼女の瞳が、画面のこちらで見ている者から離れない。
adagioが、此方のシーンの記憶違いによって別のニュアンスをもって感じられるものとなったことはそれとして、気になってしまうことと言えば、クローズアップされた演者の瞳が画面を突き抜けて対峙するようにこちらに注がれるような演出技法。映像技、と言ったら良いのか。監督の演出。状況からして病んで心の空疎思わせるこの場合のLiv演ずる女優の瞳には向かってくるようなエネルギーを感じさせるものはない。よってこちらも怯むことなどなくそれに向き合えるという感覚でいられたのだけれども、実はその少し以前、それもベルイマン作品だったのだろうか。同じようにして主役の女優のクローズアップで、挑むような力を感じさせて、見ているこちらに視線が向けられ、凝視したまま刻々と時間が過ぎていく。というシーンがあった。否が応でも画面の彼女とこちらの間に緊張が生まれずにはいないという演出。
眼を逸らせなくなったその時の、かつて映画を見ていて経験しなかった、映画を抜け出した演者を僅かの間登場させてしまうというような特異装置を見せつけられたような、自身の感覚では怖い凝視に出会った記憶。それも忘れ難い、映画の中で試みられる、或る意味可能性。映像で人の心に食い込もうとするときの技法的可能性。ベルイマンなどは、当然そうしたことを常に追求しようとした人であるのだろうけれども、この"Persona"にしても、ひじょうにむずかしいテーマを扱っている作品。タイトルからもそれは解るようなもので、何にしても上記のシーンでBachのそのViolin concerto in E major中のadagioが使われていたのは、興味深いこと。ある心的世界、心的背景に対して、クラシックを生んだ西洋世界の人はどのような音楽を選ぶものなのか、その傾向などということも、この場合を考えても思いを馳せたくなる。
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最初に触れた曲のもう一つの方、Vivaldiの方のことになるんですが、Fassbinderの"Lola"(1981)の前半の思わぬところ、思わぬ形で使われている。というように感じられたもので、それも考えあっての選択ということになるのだろう。それだけにその訳をちょっと思いめぐらせてみたくなったりもしたのである。普通には、誰も殊更にそのことには関心を抱かないのではないかな、とは思う。娼婦の名"Lola"がタイトルになっている作品であるのだけれども、時代は戦後の復興期。町に赴任してきた中年の建築局長とLolaの恋が始まる。彼女はある男の囲われ者、愛人でもある娼婦にして、男の経営する店の歌手でもあるのだが、局長は彼女が娼婦であることも、誰かの愛人であることも知らない。Lolaとの純愛に始まる。
どういう結末になるのか知ってはいるのだけれども、実際の映画は中ほど近くまでしか見ていない。その先まで見たくなくなってしまったということがある。ファスビンダーが活動していた頃、情報としてそうした異色のドイツ人映画監督がいることを雑誌等で知り、映画について紹介された記事も読んだけれども、彼の映画を見たことはなかった。今度見たのが初めて、というようなことながら、現在の年齢で見たせいもあるのか、どうもその展開への興味、あるいは作品を通して先に見えてくるものへの関心が湧かず、自身が17歳位の頃に弾いていた記憶も甦るVivaldiのViolin concerto イ短調を弾きだすという部分だけでこの作品に関しては満足、ということになってしまったらしいのである。その部分、シーンというのは、自室において建築局長が、なんとヴァイオリンを手にし、レコードに合わせて弾きだすという、いわばこの人物はそういうことのできる人だったのかと、知らないが故の意外性に遭遇するかのような面白みを、先ずは覚えたということ。
それほどに唐突な印象を与えもしたということだけれども、誰もその人を見てそうした趣味を持った人とは思わないとしても、たまたま人がそれを知らないだけ、ということは普通にあることなので、常に予想されていることが起きるようなシーンの連続も、それは凡庸すぎる。それに触れるかどうかは分からないながら、ファスビンダーは1970年から離婚した72年まで女優にして歌手でもある女性がいながら、その間も、同性である俳優とはゲイの恋人関係はつづけるという、78年には別の愛人であった同性は、自殺。薬の飲みすぎ、或いは自殺とも言われる亡くなり方をした時には女性と結婚していたというように、普通とも思われない人生シーンを辿った人であるし、異なる味がともなうことは、その端々に見られて納得がいくと考えられても良い処なのである。このヴァイオリンもそのひとつというほどでもないとしても、私には有難い登場となったというところで。
巧み。それが、先ずの印象。役として弾くシーンで、弾くふうを装って演ずるというようなものではなし。実際に手のものにしている楽器を、自在にこなしている感じが、なんとも味な良い感じ。演じた当時50歳ということになるか、Almin Mueller-Stahlが、10代の頃にはヴァイオリンをやっていてその後俳優の道に入ったという経歴の持ち主であることを後で知って、それゆえにこそのシーンだったのかと。場面にそうした味を加えたのも良く分かるうな事情も背後にあったということになるけれども、人物設定からすれば唐突なようでもあり、ゆえにまた面白みも出た、ということになるのだろうか。というより、私は、ある種、役の人物として見ていて、その上で趣味として弾くこと、たのしみのモデルを見るかのような快さを覚えたということになるのかもしれない。レコードのVivaldiと共に弾きながら、ちよっとニャッとしたりなどする。つまりは、久しく弾いていないので間違えてしまったという部分のあったことを、音からは分からない形で、表情が物語る部分などにあった、味。なんとも、良かった。
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VivaldiのViolin concerto in A minorの楽譜ははるか昔に失くしてしまっていて、また弾こうとも弾きたいとは思わない、ただItzhak Perlmanのプレイを聴くなどして良さを感じたりもしているだけだけれども、Bachのconcerto in E majorの方は、Menuhinの弾くイメージにひきつけられるようにして、ここのところ弾くことが多い。
Bergman
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are-kore/兎跳び熊吠え不敗神登場する神宮球場のimmortalityに話及べば
久しく更新しなかったことになるけれども、気がついてみればという処もあって、いつの間にやら月も変わりその月も後半に入って、これは何といったら良いのか、わわれわれの置かれているさだめ、ということでもあって、そうした思いを繰り返しつつ年を重ね、いつも時間は過ぎていくということで、その最後が人によって何年目かのちがいということにもなりますか。80年などというところにいけば上々などというような受け止めをする人もいるかも知れない。初めからそのようなことには無感覚、という向きがあってもおかしくはないということもあるものの、何にしても気がついてみれば、時には残されている時間ももうない、ということもね。
この18日の土曜日は、およそ30年振りか。神宮球場。正確に言えば明治神宮野球場に、予定の通りに出掛けて六大学の応援。何故に行こうという気になったのかと言っても、たまたま思いついてというほどのところでしかないんだけれども、その週の立教3回戦を予定していたら早稲田は連敗をして、3回戦がないことになってしまった。ということで、土曜日の法政戦にずれこみ。その日、地下鉄駅から外に出て感じたのは、全然辺りに見覚えのない状態になっていること。初めて来る場所同然の辺りへの感覚。球場の方角はおおよそ分かったけれども、分かったことと言えばそれくらいであとは未知の街状態。というのは、どうしてなのか。かつて幾度となくやってきていたものなのに、30年も経つと?
応援部のリードに従っての観戦になる応援席に入ることにしたその日。前から5列目程のところだったけれども、すぐ脇に応援部員が立って声を張り上げる。眼の前にチアの女子がやってきて立ち、これまた元気な声を上げる。そうした周囲の動きの中、校歌を歌い、応援歌の「紺碧の空」、その他をを歌い、コンバットマーチにメガフォンを叩き、手を振り上げる。選手を応援、と連続して応援は続く。という中で、感じたのは、応援部員やチアたちの頑張りを眼の前にしていての、それにも応えてあげなければというような心情。印象としては、自身の学生時代にチアはいなかったけれども、応援リーダーに従っての応援スタイルは変わらないように感じた。それに当該試合大学の応援団同士の、交換の六大学の形、伝統。
私が初めて神宮球場に行ったのは、昭和36年の春の早慶戦。慶應側の関係でチケットをいただいて観戦できたのだけれども、その春素朴な新潟の中学校を卒業したばかりの、15歳のとき。熱気に満ちた超満員の球場内の模様は、強烈な夢のようなものであったということになると思う。そうしたイベントの場に身を置くのは、初めて。記憶に残っているのは、早稲田側の応援。三塁側に見た方向イメージとして残っているのだけれども、現実にはそれはありえなくて、一塁側早稲田、三塁側慶応というのは歴史的な背景もあって固定しているので、三塁側の何処かから一塁側の早稲田を見ていたのではないだろうか。ワ・セ・ダと上げる声の区切りに従って、学生たちが体を前に倒し、後方に体を上げると共に両手を上げるというような形だったか、その連続した上段から下段までのスタンド全体の動きが、稲穂の揺れるイメージに映った応援部分。
その応援のさまが深く残像として残っていて、他にはただ場内の熱気に圧倒されたような記憶しか残っていない。その時に試合に出ていた選手の名前なども、全く記憶にない。それから25年程を経た1980年代のこと、TVKテレビ(神奈川テレビ)で毎週末放映されていた六大学野球の試合中継番組で、ある時「六大学野球の思い出」というようなテーマで、視聴者への応募が呼びかけられたことがあった。その時に私もなにか書きたくなって、浮かんだのがその最初の時の忘れがたい早慶戦のこと。六大学野球は今よりはるかにマスコミの扱いも大きな人気スポーツであったし、その前年の秋のリーグ戦では早慶六連戦という歴史に残る対戦があったことになるのだけれども、田舎にいた中学生まではその連戦の熱気は届かなかったように思う。ただ、初めてその春行った早慶戦の模様からしても、熱気は言うまでもなかったということ。
確か四百字詰めの原稿用紙に4枚余、書いたように記憶する。それから程ないある土曜日か日曜のいずれか、試合前の時間に視聴者からの投稿の紹介があって、なんと私の名前が言われ、その「思い出」に実況アナが触れることになったのだが、その時の担当が、かつてのプロ野球のニッポン放送のショウアップナイターと言えばすぐに名前の出るほどに知られた、深沢弘さん(1936-)だと、さして考えもせずに思いこんでいた。ところが今回Wikiで見てみると、彼は1994年までニッポン放送にいて、その後神奈川テレビに移ったことが分かって、1980年代にそちらで仕事をしていることはありえないことを知った。ということで、改めて考えて思い至ったのが、TBSのエキサイトナイターで実況アナとして活躍された渡辺謙太郎さん(1930-2006)。
1985年12月にTBSを退職されて、フリーになっている。ということでも、時期的にピタリと合う。今になってみると、その顔も声も記憶から脱落している深沢弘さんに比べて、渡辺謙太郎さんの記憶は、顔も声もその人間の発するイメージも確かに残っていて、既に亡くなられていることを知ればとても懐かしく感じてしまうのだけれども、放送での私の投稿文への触れ方も彼らしいというのが、そうして思えば分かってくる。彼ならでは、という感じがする。というのも、普通であれば、400字詰4枚余もある投稿文を紹介するのであれば、簡略に要約するなりして一部を原文通りに伝えるというようなことになるのだろうけれども、その時の渡辺さんは一行目から原稿を読みだして、さわりの部分だけで終わらせるものと思っていたのが、終わらずに先へと進むのである。そこで自身の書いたものに触れられるとは思ってもいなかった上に、そのように読みだされて、心情としては気恥かしさにそこから逃げ出したい思いになったのだけれども、読み続ける彼の声は最後の一行までという形勢で、止みそうにないのである。
何故にその長すぎると思える全文を彼が紹介しようとしたのか。印象としてその時にもそれと感じたのは、早稲田出身の彼の早慶戦への思い入れの強さ。その早慶戦を初めて見た時の感動がいかに大きかったかを書いた私の投稿文は、彼の思い入れ感覚波長と、実に良くマッチをしたのではないかということ。記憶にあるそうした彼に、熱いものを感じる。渡辺謙太郎さんという人は、そういうハートを持った人だったな、ということを今になって思う。あまりに遠い過去のことなので深沢弘さんも早稲田の出身であったことから、いつのまにか思い違いをしてしまうことになったけれども、前に書いたように深沢さんの声も顔も、実のところは記憶から消えてしまっている。
神宮球場で記憶に残っていることのひとつと言えば、2004年から2008年まで阪神タイガースの一軍監督だった岡田彰布さん。彼が大学に入ったばかりの年。春のリーグ戦の後の新人戦を見に行った時のライト前ヒット。彼は1957年生まれだから、1975年のこと、ということになる。昭和50年。曇天の日で、青空の下の球場感覚とは違い、スタンドの下側の早稲田側ダッグアウトすぐ上にいたせいか眼の前のグラウンドの土の感じが、プレイのスピード感を失わせるような重さを感じさせる、暗い色に映ったもの。そんな重い感じのグラウンド上を、ガツンという音と共にライト前に打球が転がって行った。硬球ならではのといったらいいのか、それに曇り日の重さも感じさせてのガツンという音。その音の感じが耳に残り、またそのガツンには岡田という選手の非凡なパワーゆえのものもあるのか、とも感じさせるものがその時の思いにはあった。並の一年生とは少しちがう、という情報からのイメージもあったのかもしれない。
今回、大学のサポーターズ倶楽部の関係で、20名に早慶戦のペアチケットが抽選でプレゼントされるというので申し込んでおいたら、思いもかけずに当選。というようなことで、外れていればおそらくは今回は行くことはなかった早慶戦に、そうとなればこれは良い機会と、普段は外で存分に声を出して歌うなどということがないし、応援をしたい気持ちは大であるから、是非とも行かなければという気持になっている。この春のリーグ戦での早稲田と慶応。最下位の東大は決定済みとして、どちらかが4位か5位になるという順位の待つ不本意な成績のシーズン。だが早慶戦は早慶戦。成績とは無関係の両大学にとっての特別な試合、イベントでもあるので、その盛り上がりに期待し、また良い思い出がひとつできればと思う。
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are-kore/至るところに新しい窓新たな繋がりの端見えること
こういう行動を、どのようにとるか。考えてみたくなることではある。もう亡くなられた著名な哲学者についてのあるエピソードによるものだけれども、その先生が散髪のために床屋さんに入った。そうして始められたのだけれども、床屋さんのやり方が、先生は気に入らない。ああだのこうだのと注文をつける。先生の風貌を写真などで見たことがないので、どういう髪型をされていた方であったのか分からないのだけれども、そのあれこれ注文をつけるあたり、ご自身の外見イメージを大切にされていたということは、伝わる。だが、プロである床屋さんも色々と心得ているはずなので、客の求めるところ、外見に相応しいイメージもちゃんともってかかっているはずとも思えるので、どういう互いの間のズレであったのか、興味も覚える。
ともかく、先生は気に入らない。ついにはとうとうお怒りになって、「もういい」とそのやりかけの頭のままそこを飛び出して、別の床屋さんに行かれることになり申した。ところが二軒目の床屋さんのやり方はもっと気に入らなかったらしくて、そこでのやりかけの頭のまま、また元の店に戻って来て、「さっきはすまん」と言って、その続きをやらせたという。先生の行動も、当人には切実で失礼な言い方を許してもらえれば滑稽でさえあるけれども、最初に不満をあれこれ言われて出て行かれた床屋さん、それに二軒目のやはり客に気に入られずに出て行かれた床屋さん、二人の受難のようなその時の表情も、何とはなしに想像されてくる。自身の思うところ、感じるところを率直に表明する、先生の見せた行動には、本来そうあっても良いと思えるところも、あると思うけれども、現実的にはどういうものか、ということが絡まる。
その著名な哲学者というのは、詩人谷川俊太郎の父親、谷川徹三(1895-1989)。、たまたま読んだねじめ正一の2002年の著書の中にあった「『世間知ラズ』を読む』というタイトルのエッセイの中に書かれていたこと。「世間知ラズ」は、谷川の1993年の詩集。谷川、ねじめ氏たちは、阿佐ヶ谷という地を介して近隣に住む者同士。「谷川俊太郎の姿は、しょっちゅう商店街で見かける」、というような、それも何十年にも渡る、地域内生活者同士。そんなことから、そうした谷川徹三の「こんな楽しいエピソード」、というのも近所での出来事として耳に入ってくることになったのだけれども、息子の俊太郎の近所でのエピソードというのは、何十年を経てもひとつとしてない、とねじめは言う。何故にそのようであるのかを、読むこと鋭く巧みなねじめは、身近に知った谷川俊太郎という人を、読み解いていく。詩人同士として一緒に仕事をすることもある間柄でありながら、「カラダの小さい、頭の薄くなった、目立たないおじさん」としての谷川を、しょっちゅう近所で見かけたりなどもしている、というねじめ正一氏。
先の、見方によっては子供っぽいとも思われる谷川徹三先生のエピソードが思わせる、自分の感情に従って正直に動くというパターンのこと。それができずに、普通には自身の感情を抑制するということになるのだけれども、それのできる人が、つまりは大人。という一方の事情。その結果どうなるかという方のことになると、はなはだ心許ないと思われるところもでてくる。自分を抑えつづける先。その抑制の在り方の先には、国民性的な部分に至るまでの傾向が見られてくるのではないか、などとも思えてしまうけれども、そこのところは難しい。 ところで、ねじめ正一なんだけれども、今度その著書を図書館の書棚から偶然に手にするまでは、実のところ、関心の外の対象でしかなかった。何十年ものむかし、彼の詩のひとつを読んだ時の印象が残っていたくらい。奔放そのものの言葉遣い。田村隆一にホルモン詩人と言われたとか。そうした勢いの散文詩。結局のところ、食わず嫌いというようなことであったのかもしれない。
この著書にしても、他に読みたいものがあったということもあったけれども、結局は読まないままで返すことになる手前。返却日の一日前についに開いて、「詞のコトバ詩のコトバ」という中島みゆきの歌詞について書かれたエッセイを最初に読んで、「唯一、中島みゆきの曲を聴くと、涙腺がゆるむのである」という部分に至って、突如スイッチがONになりかけた。「その泣きたいときにかける曲が中島みゆきの「この空を飛べたら」である。中島みゆきの曲の中で泣きたい曲ベストワンである」という次の言葉に至って、一気に共鳴感覚上がり、この人間が好きになってしまった。単純なものです。私は聴いて泣きたいわけではないけれども、だが胸に来る。三、四年前、長い髪、ドレスしなやかな大人の女性らしさをもってこの曲を歌う彼女のビデオを最初に見て以来、繰り返し好んで見ていた時期があって、今でも、歩きながら時に口ずさんでいることなどもある。その歌詞、言葉にやはり胸に来るものを覚えてしまっていたりなどする。
借りた本は延長し、全編面白く、興味深く読ませていただくことになったし、ねじめ正一氏という優れた表現者についても、それ以前にはなかった認識をもつようになった。開かないままで返していたら、最初に書いた哲学者谷川徹三の、思いもかけないエピソードも、知らないままであったことになるのだろうし。
にほんブログ村are-kore/farewell 2012 and ウエルカム巳年の2013
2012年12月31日。という今日なので、グッドバイこの年、とこうした場で言いたくなる、やっぱり普通の日でもない。その今日という日は、常に新しい日ではあるけれども、また古い、遠い日の如きもの。次の新しい年も、届かない、遙か遠くに過ぎた年でもある。 そのようにして常に過ぎる時間の中にいて、今新しい現在の瞬く間に遠のいていく様(さま)に、否が応でも向き合わされていると、未来もまた、遠のく過去の時間を待つ、たまたま先に置かれているだけのもののように映ったりなどしてしまう。
妄想のようなもの、と言えば言えるし、実のところでは、まことに真実、とやはり言うしかないということになるのだろうけれども、我々の生きている人間世界、本当に誇大妄想としか思われないようなあれこれのことに、その生きる土台をしっかりと占められて━━それが先ずは何を指すかは誰しもが考える通り、それがつまりは人間、そして我々の生きる世界になるので、なんとも、と嘆息せざるを得ないようなこともあれこれと出てくる。衝突、苦しめ合い、というのは世界の誰もが望まないことだろうけれども、そうもいかないというのが哀しい。
何にしても、しあわせ、だとか充実した現在、という実感のある日々を多く持っていけたら、という誰しも願う思いは、やはり時間を超えて、個人的にも変わらずにいくはずのもので、、、、、、、。Farewell 2012 and ウエルカム、巳年の2013。
are-kore/外吹く風此方のinside掠りもせずに空間をびゅんびゅんとまあ自在この上無し
are-kore/それはそうなの地上最強のどうぶつ問われてrat胸張る
are-kore/数を見るに何処を向いてのそれかと閻魔に眼剥かれる横向きviewer
少し前のこと、思わぬところで「小国和紙」に出合った。この国の中で知識ある人は、その和紙を知っていて利用している人もあるということを、そのことは思わせたのだけれども、一冊の本の中。佐藤隆介著「池波正太郎指南 食道楽の作法」。その最初の章、「酒ヲ以テ真ヲ養フベシ」の中に「和紙は旅に出るたびに見つけて買って帰るが、いま一番気に入っているのは小国和紙である」の記述。自身の故郷に繋がるもの、その地名などに普段こうした形で触れることはないから、やはり珍しいものに出会えたかのような感覚になったもの。
小国和紙。以前、江戸時代、あるいはそれ以前から製造されていたということを知って改めて、自身が生まれた地のことについて何も知らずに来たことを思わされたのだけれども、実際の処、昭和三十年代に中学校を卒業して故郷を離れるまで、確か一度として和紙のことを耳にしたこと、学校なりでも教えられたことはなかったと思う。それほどに全く知識としても入ってこない、周辺にはないものでしかなかったということ、それは他の子たちにとっても同じだったのではないだろうか。
現実には同じ中学校の通学地域、山野田で当時も冬の時期に必要な収入源として生産されていたはずであるし、当然同級生に山野田から通っている生徒はいて、彼らはその手伝いなどもやらされていたはずであるのだから、それでもこちらの耳にはそうしたことについて全く入ってこなかったといのは、どういうことだったのだろうか。今にして奇妙にも、思う。山野田、それに法末という地域など、本当に学校までは距離のある奥の地域で、積雪の多い冬などよくも歩いて通えるものと思ったもの。大変だったと思う。
私が故郷を離れて以降、時代と共に地域起こしによる変化なども訪れて、小国和紙は1973年には日本の無形文化財に、1974年には新潟県の無形文化財となった由。私の住んだ50年代までには考えられなかったような評価を得るまでに至ったということ。素晴らしいことと思う。ただ、2004年の中越地震で、山野田の集落は全戸避難せざるを得なくなり、そのまま集団移転をしてしまったということ。技術は受け継がれて生産に変わりはないとしても、およそ考えられないようなことの起きたことを、改めて思わされもする。
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都会の中のふしぎすぎるできごと
この水曜日、5月23日の午後の早稲田でのこと、ワイシャツの右のカフスボタンが、手首の部分から外れて消えていることに気づいた時には、思いがけないことの起きた思いがしたものでした。かつてそのようなことの起きた経験もないし、そこに止めた限り外れることがあろうなどとは考えもしなかったからである。緑のカフスで、その色合いや形など気に入っていたひとつであることは確か。でも、ひとつ欠けてしまったのでは次には用を成さない。、残念に思い、少々がっかりもした。何処で外れたものか、想像もつかない。
毎週、水曜、そして金曜日。それぞれの日、午後二つの講座を受講しているので、西船橋から早稲田まで東京メトロに乗る。始まりが1時。少なくとも30分以上前には駅に着いて近くでコーヒーなどを飲む時間を持ちたいと考える。昨年につづいて受講している、金曜日の文学部の中島国彦教授の講座は先生が出欠をとるのだけれども、一度、間に合う時間に出たつもりが実際にはそうもいかず、教室に入った時には出欠もとり終えた1時5分。駅から小走りに向かい、26号館に入ってエレヴェーターを使わず、階段を7階まで急いで上がりながらの、その結果。そういうことは、避けたい。
中島先生の教室については、受講生30名ほど。ウィークディの昼。男女共に、5、60台が中心。この4月からは、横光利一の「上海」が3回、そして現在の折口信夫の「死者の書」が4回の予定で、そしてまたその次の作家へと進むスケジュールになっているのだけれども、私にとっては他の講座もたのしみ多い時間ながら、中島先生の授業もまた内容を感じる魅力ある時間。優しい人柄そのままという語り口での、アプローチの仕方、切り口がとても興味深い。この26日の金曜日も、12時20分位には早稲田駅に着く電車に乗っている。
横光利一、それに折口にしても講座で取り上げられなければ、自身が触れるはなかったというような人たち。殆ど作品のタイトルを知るのみであったという処であるけれども、例えば折口にしても、こうした機会を得て、その世界を知るきっかけを得られたように思えるし、それこそがまた機会を持つこと、出掛けていくことの良さでもあるように思える。その折口の「死者の書」、その岩波の本の中、適当に選んだ部分を東京メトロの中で、その金曜日、辿ったりなどしていた。ということなのであるけれども。
どのあたりだっただろう? 多分、日本橋から大手町にかけての辺り。少々眠気を催して本を脇に、眼を閉じ、頭をたれてしまったのである。だからその後の間は、何処かに飛んでしまっているような感覚の中。だからそのあとで、脇から声をかけられたように感じ、眼を開いてその方を見た時。そこに隣の席の、中年のしっかりとした顔立ちの女性を見、彼女から緑のカフスを渡された時も、ちょっと夢うつつのような感覚のまま、お礼の言葉を言っていただけのことで、現実感が薄かったという記憶がある。そのことがあったのは、確か竹橋を過ぎて九段下に向かっていた辺り。
それがどういうことであったのか、現実味をもって考えられるまでには時間がかかったし、実のところは今でも良くは解らない。その時には、家にもうひとつのカフスがあることが分かっていたから、それが失くしたひとつであるのはまちがいがないと思いつつも、帰って確認するまではという気持ち。当然のように、それは帰って確認。おそらくは、水曜日の東京メトロの中で、カフスは外れ落ちたのにちがいない(他の場所の可能性は?)。各駅ごとに人の乗り替わりのある車内。見知らぬ人ばかりの中。思い返しても、記憶に残る顔は、全くないに等しい。
そして、この金曜日。乗った快速電車の、発車時間などは記憶にないけれども、水曜日とは別の時間の電車であったはず。快速といっても東陽町の先は各駅になるものの、ともかく互いに見知らぬ者同士が、それぞれに動いている都会の中のできごと。その中で、突如、たまたまそこに乗り合わせただけと思われる隣席の女性に、いまそこで外れ落ちたカフスであるがごとくに手渡され、何故にそうなのか解らぬままに此方が、それを受け取っていたという、時空の中に謎のあるような、そして謎のままのできごと。
にほんブログ村are-kore/飛び出して還らないのも天のSiriusにまで至れば到底無理ゆえギヴアップ
前回は、内田百間さんの、ex-野良猫の家猫ノラ失踪後の長年に渡るノラへの思い、嘆きなどの多々思われるエッセイまとめられた「ノラや」のことにも触れたのだけれども、愛する者がいなくなる、消息不明になる、これは人間ならではの辛い経験事。どうしているのかが、分らないという向こうの見えない状況。それゆえに余計に思いも募る。そう言えば、前回の記事の時にも忘れていたのではないかと思えることで、ふとまた思い出したことに、昨年9月のニュースに、アメリカの西部コロラドで失踪した三毛猫が、2600キロ離れた東部のニューヨークで、ほぼ5年ぶりに発見されたということのあったこと。
これは、どういうことか。動物の保護団体が体内に埋め込まれたマイクロチップによって、それが失踪した当の猫と同一であることが確認されたとのこと。どのような場所でどのような形で幸運にも保護されたものなのか。どれほどの数か想像できないけれども、ニューヨークにも相当数の野良猫君たちがいるものと思われるから、こうした出来事は稀有のことと思われる。それにも増して、その距離の不思議。長距離輸送車両に入りこんでの旅、ということもそこにはあったか、などということを普通に推測したりもするけれども、なんにしても生きていた、そしてまた飼い主の元に戻るという、事実。
先月の25日。自身も10年9カ月の間、家族の一員であった"L"を、思わぬ状況にて、失う。溺愛していた。今、何処にいるものかは、神のみぞ知るという処。ここにいて、埋めてくれていたものの多いこと。"L"には、改めて感謝の気持を言いたい。
are-kore/視る向きの奥似たる人時越え訪れることあるそのとき
are-kore/厳冬無ければ温もる春の訪れも無しと線上のcrow
are-kore/夜空カイチュウデントウ向ければ光淡く月に触れる
たまたま、いままた内田百閒(1889-1971)さんのものを読む機会が訪れて、むかし読んだ「冥途」だとか、「旅順入場式」など、文庫本のページにしても5ページほどしかないようなものなど、読んでみているのだけれども、3日前、月一回の医者に行って待っている間に開いて「波止場」というタイトルのこれは8ページほどになるものだがその最初のページに、「性根の悪い色をした青黒い水」という表現が出てきて、なんだかまた百閒さんの人間そのものに絡まるなにかがそこにもあるような印象を覚えた。水に人間のような性根があろうとも思えない。
「祖母に溺愛されて育ったためもあってか、非常に頑固偏屈かつ我儘で無愛想な人物として知られ、またそのことを自認してもおり、よく作品内の素材に利用した」。そのようなことなので、そこに入りこめば、その特有とも思える個性とつき合わざるを得なくなる。通常の人間の感覚を物差しのように脇に置いて、彼独特な心の風景に思いを向けつつ、あれこれと巡らせて。つまりは、それはそういう人の世界のこと、それゆえに見えているその足跡。そこに人間のなにを見、感じる? そんな材料である、百閒さんという人、或いは文学とのつき合い、しばし。
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本日の、これは非常に危ない自身の初めての経験。近辺を動く時には、概ね自転車を利用。私はdiabetes18年目、というようなことはあるけれども、血圧はほぼ正常で健康面で特におかしさも感じていない、という状況。よって普通に走っていた時に突如なにか分からないものに支配され、自律感覚を失ってフワフワと漂うように歩道から、30センチほどと段差のある車道に落ちて行ったという事態は、考えられもしなかったこと。前を行く車の後部が眼に入る。後ろから来る車に当てられても、どうにもできない。自転車は横倒しになったが、こちらは膝をつく形でなんとかこらえられて。
第三者が見たら不注意で、走行中に車道に落ちてしまったとしか映らなかっただろうが、こちらは乗用車やトラックの運転者が、運転中に意識混濁を起こして歩行者を轢いてしまう場合の、自律不能状態に陥ったのと同じようなもの。自分ではどうにもできないという事態。頭の中に痛みのようなものは全くない。歩道に戻ってからも、頭の中がモワモワとして定まらず、歩けないので道脇で動けるようになるのを待つ。もちろん、不安定な状態はつづいてもう乗ることはできずに引いて戻ったけれども、道々、これではもう危なくて自転車などは利用ができないと思ったもの。
脳卒中で倒れた知人のことなどが、甦る。でもそれとは違って耳の方に関わる症状による、という印象。昨年の夏あたりから左右の耳の内側の具合がおかしくなって、漸くここのところ一段落した気配であったのだけれども、どうもそちらとの関わりと思える。友人にメニエール病なる持病のある者がいるので、その感覚がちよっと分かるような気にもなったが、また通常の感覚に戻ってみると、喉元を過ぎれば、というふうで自転車は変わらずに利用する。但し、今後は注意深く、ということは当然。
ページの無い内田百間処女作品集「冥途」(1922)の初版本目次
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are-kore/飛躍ある処の訳ありに夕べの直立食指
名手の音外し。 monkey、うっかりと落下した木は、たまたま滑り易くて。 であったのか、そうではないのか。 真ん中とると、そこから飛び立つ、波長。 ではない、白鳥。 その間に何が起きているのか、起きるのか。 そこにひとつ差し込む、検死庁長官の万引き。 と言えば多少の飛び過ぎと見て、警部の行為に差し替え。 次には、当の白鳥が置き引きなどと。 何かしら、常に飛び立つ。 それを確実、と見る。 いやでも、そうなる。 いやでも、検死好みの検死庁ならぬ警視庁の長官。 というのは、たまたまの極楽鳥の名前。 空には虹色の雲。
23 October 或る人は、別の時間軸をイメージしてたいした年数ではないと言う。でも、にんげんにとっては、やっぱりたいした年数、100年。生きること。あなたにできますか? と問われてyesと自信ありげに言える人も少なかろう。2パーセント? その100歳でこの16日、カナダはトロントにてフルマラソンを完走のシーク教徒、ファウジャ・シン。8時間 25分 16秒。日本の100歳、日野原重明医師も対抗心燃やして、駆け出しますか? そのお姿拝見したいと言う人もいないでしょうけれどね。なんにしても、ひとつの貴重な人類的達成とみて、世界的賞をあげたいような快挙ではありませんか。もしまた、101歳にしてフルマラソンの完走など果したら、その驚異の度を上げることになるのではないかな。1歳加わるだけで、それはもう。
私の十代の頃の記憶に刻まれている名前に、ミルカ・シンというインド人アスリートがいる。ターバンを巻いたシーク教徒。1960年のオリンピック・ローマ大会で400メートル、4位。アジア大会では金メダル。インドでは陸上界の英雄となっているとか。ターバンを巻いた100歳のフルマラソン完走のニュースに、彼のことが甦ってきた。ついでに検索をしてみたところが、Wikiで見られたのは、ジープ・ミルカ・シンという1971年生まれのプロゴルファー。インドを代表するプレイヤーだとか。それが、私の記憶に残るミルカ・シンの息子であることを知る。それはさておき、完走者がインド系、シーク教徒だったこと。そこに見えてくるものも、なにかあるのだろうか? そのようなことも、ちょっと思わせたこと。
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are-kore/見えすぎても行き着く先闇深しでは
1 October われわれ、永遠などということを、よく言うものだけれども、短かなhistoryしかない人類の未来に、それはないのですねえ。時間は、限られております。孤独死。哀しいイメージでとらえられるものながら人類の死も、まさにそれになるのではないかな。蝉の夏もとうに終えて、本日は、衣替えの日。
4 October 「蝉の夏もとうに終え」と書いたことを思い起こすようなことが今朝。歩いていると、車道脇の路上に仰向けの蝉が、一匹。すっかりと秋の気候で、晴れの日だけれども、肌寒さがある。もう蝉のいる時期とも思えなかったから、まだいたのかという思いと、以前死んだ蝉がたまたまそこに見えているのかという半信半疑の思いで拾い上げてみると、それもちょっと予感にはあったのだが、足が動くのである。此方の指にその先をかけようとする。生きていたということは、蝉の季節はまだ終わってはいなかったということ。もう死ぬばかりのところの蝉君を、道脇の木の根元に置いてあげた。むろん、夏の方は、とうに彼方。