are-kore/至るところに新しい窓新たな繋がりの端見えること

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こういう行動を、どのようにとるか。考えてみたくなることではある。もう亡くなられた著名な哲学者についてのあるエピソードによるものだけれども、その先生が散髪のために床屋さんに入った。そうして始められたのだけれども、床屋さんのやり方が、先生は気に入らない。ああだのこうだのと注文をつける。先生の風貌を写真などで見たことがないので、どういう髪型をされていた方であったのか分からないのだけれども、そのあれこれ注文をつけるあたり、ご自身の外見イメージを大切にされていたということは、伝わる。だが、プロである床屋さんも色々と心得ているはずなので、客の求めるところ、外見に相応しいイメージもちゃんともってかかっているはずとも思えるので、どういう互いの間のズレであったのか、興味も覚える。

ともかく、先生は気に入らない。ついにはとうとうお怒りになって、「もういい」とそのやりかけの頭のままそこを飛び出して、別の床屋さんに行かれることになり申した。ところが二軒目の床屋さんのやり方はもっと気に入らなかったらしくて、そこでのやりかけの頭のまま、また元の店に戻って来て、「さっきはすまん」と言って、その続きをやらせたという。先生の行動も、当人には切実で失礼な言い方を許してもらえれば滑稽でさえあるけれども、最初に不満をあれこれ言われて出て行かれた床屋さん、それに二軒目のやはり客に気に入られずに出て行かれた床屋さん、二人の受難のようなその時の表情も、何とはなしに想像されてくる。自身の思うところ、感じるところを率直に表明する、先生の見せた行動には、本来そうあっても良いと思えるところも、あると思うけれども、現実的にはどういうものか、ということが絡まる。

その著名な哲学者というのは、詩人谷川俊太郎の父親、谷川徹三(1895-1989)。、たまたま読んだねじめ正一の2002年の著書の中にあった「『世間知ラズ』を読む』というタイトルのエッセイの中に書かれていたこと。「世間知ラズ」は、谷川の1993年の詩集。谷川、ねじめ氏たちは、阿佐ヶ谷という地を介して近隣に住む者同士。「谷川俊太郎の姿は、しょっちゅう商店街で見かける」、というような、それも何十年にも渡る、地域内生活者同士。そんなことから、そうした谷川徹三の「こんな楽しいエピソード」、というのも近所での出来事として耳に入ってくることになったのだけれども、息子の俊太郎の近所でのエピソードというのは、何十年を経てもひとつとしてない、とねじめは言う。何故にそのようであるのかを、読むこと鋭く巧みなねじめは、身近に知った谷川俊太郎という人を、読み解いていく。詩人同士として一緒に仕事をすることもある間柄でありながら、「カラダの小さい、頭の薄くなった、目立たないおじさん」としての谷川を、しょっちゅう近所で見かけたりなどもしている、というねじめ正一氏。

先の、見方によっては子供っぽいとも思われる谷川徹三先生のエピソードが思わせる、自分の感情に従って正直に動くというパターンのこと。それができずに、普通には自身の感情を抑制するということになるのだけれども、それのできる人が、つまりは大人。という一方の事情。その結果どうなるかという方のことになると、はなはだ心許ないと思われるところもでてくる。自分を抑えつづける先。その抑制の在り方の先には、国民性的な部分に至るまでの傾向が見られてくるのではないか、などとも思えてしまうけれども、そこのところは難しい。                         ところで、ねじめ正一なんだけれども、今度その著書を図書館の書棚から偶然に手にするまでは、実のところ、関心の外の対象でしかなかった。何十年ものむかし、彼の詩のひとつを読んだ時の印象が残っていたくらい。奔放そのものの言葉遣い。田村隆一にホルモン詩人と言われたとか。そうした勢いの散文詩。結局のところ、食わず嫌いというようなことであったのかもしれない。

この著書にしても、他に読みたいものがあったということもあったけれども、結局は読まないままで返すことになる手前。返却日の一日前についに開いて、「詞のコトバ詩のコトバ」という中島みゆきの歌詞について書かれたエッセイを最初に読んで、「唯一、中島みゆきの曲を聴くと、涙腺がゆるむのである」という部分に至って、突如スイッチがONになりかけた。「その泣きたいときにかける曲が中島みゆきの「この空を飛べたら」である。中島みゆきの曲の中で泣きたい曲ベストワンである」という次の言葉に至って、一気に共鳴感覚上がり、この人間が好きになってしまった。単純なものです。私は聴いて泣きたいわけではないけれども、だが胸に来る。三、四年前、長い髪、ドレスしなやかな大人の女性らしさをもってこの曲を歌う彼女のビデオを最初に見て以来、繰り返し好んで見ていた時期があって、今でも、歩きながら時に口ずさんでいることなどもある。その歌詞、言葉にやはり胸に来るものを覚えてしまっていたりなどする。

借りた本は延長し、全編面白く、興味深く読ませていただくことになったし、ねじめ正一氏という優れた表現者についても、それ以前にはなかった認識をもつようになった。開かないままで返していたら、最初に書いた哲学者谷川徹三の、思いもかけないエピソードも、知らないままであったことになるのだろうし。

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コメント 3

ぶーけ

よかったですね、読まずに返してしまわなくて。
思いがけずよい出会いでしたね。^^
by ぶーけ (2013-02-19 19:42) 

extraway

Thanks、ぶーけさん
どこでどういう出会いがあるか、分からないものですね。それから、相手を知らないままに、誤ったイメージを抱いたままでいたりすることもありますから、できるだけそういうことのないように心掛けたいものです。

by extraway (2013-02-27 19:54) 

ぶーけ

美術手帳、近くの本屋さんにはありませんでした。都心の本屋さんにも負けないくらい大きい本屋さんなんですけど。。><
フランシス・ベーコンのアトリエ、気になってます。今東京で展覧会やってるそうですね。
by ぶーけ (2013-03-18 08:24) 

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